平家物語 木曾の最期 現代語訳

公開日: 09.09.2020

巴、その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べて、むずと取つて引き落とし、わが乗つたる鞍 くら の前輪 まへわ に押しつけて、ちつともはたらかさず、首ねぢ切つて捨ててんげり。 巴は、その中へ駆け入り、御田八郎(の馬)に(自分の)馬を並べて、(御田を)むんずとつかんで(馬から)引き落とし、自分の乗った鞍の前輪に押しつけて、少しも身動きさせず、首をねじ切って捨ててしまった。. 頭高 かしらだか に負ひなし、滋籐 しげどう の弓持つて、聞こゆる木曾の鬼葦毛 おにあしげ といふ馬の、きはめて太うたくましいに、金覆輪 きんぷくりん の鞍 くら 置いてぞ乗つたりける。 (箙に差した矢の先端が)頭より高く突き出るように背負い、滋籐の弓を持って、有名な木曾の鬼葦毛という馬で、非常に太くたくましいのに、金で縁取りした鞍を置いて乗っていた。.

遠く 異朝 (いてう、イチョウ)を とぶらへば 、秦(しん)の趙高(ちやうこう)、漢(かん)の王莽(おうまう、オウモウ)、梁(りやう、リョウ)の朱伊(しうい、シュウイ)、唐(たう、トウ)の禄山(ろくざん)、これらは皆(みな)、旧主先皇(せんくわう、センコウ)の政(まつりごと)にも従はず(したがはず)、楽しみを極め(きはめ)、 諌め(いさめ) をも 思ひ(オモイ)入れず 、天下の乱れむ事を悟らず(さとらず)して、民間の愁ふる(ウレウル)ところを知らざりしかば、久しからずして、 亡(ぼう)じに し者どもなり。.

ヘルプ ヘルプ 寄付. 池井戸潤のドラマ化された人気作品をご紹介 池井戸潤の『半沢直樹』シリーズが原作となっているTBSのドラマ『半沢直樹』は大ヒット作品となり、主人公の決め台詞の「倍返し」は流行語にもなりました。その他にも池井戸作品は次々とドラマ化され、どれも高視聴率の人気ドラマとなっています。これまでにドラマ化された池井戸作品についてご紹介します。. 作中で出てくる平清盛(たいらのきよもり)も、源義経(みなもとのよしつね)も、実在した人物。作中で書かれる「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)などの合戦(かっせん)も、実際の歴史上の出来事。 作者は不明。.

山下澄人『しんせかい』はここがスゴい!【芥川賞受賞】 山下澄人『しんせかい』の受賞が決定した第回芥川賞。その受賞候補となった5作品をあらすじとともに徹底レビューします!. 今井四郎(いまゐのしらう、イマイノシロウ)、木曾殿(きそどの)、主従二騎になつて、 のたまひ (イ)けるは、「日ごろは何ともおぼえぬ鎧(よろひ、ヨロイ)が、今日は重うなつたるぞや。」今井四郎申しけるは、「御身(おんみ)もいまだ疲れさせ給わず(タマワズ)。御馬(おんま)も弱り候はず(さうらはず、ソウロワズ)。何によつてか一領の御着背長(おんきせなが)を重うは思しめし(おぼしめし)候ふ(ウ)べき。それは御方(みかた)に御勢(おんせい)が候は(ワ)ねば、臆病でこそ、さはおぼし召し候へ。兼平(かねひら)一人(いちにん)候ふとも、余(よ)の武者千騎(せんぎ)とおぼし召せ。矢七つ八つ候へば、しばらく防き(ふせき)矢仕らん。あれに見え候ふ、粟津(あはづ、アワヅ)の松原(まつばら)と申す。あの松の中で御自害(おんじがい)候へ。」とて、打つて行くほどに、また新手(あらて)の武者、五十騎ばかり出で来たり。 「君はあの松原へ入らせ(いらせ)たまへ。兼平はこの敵(かたき)防き候はん。」と申しければ、木曾殿のたまひ(イ)けるは、「義仲(よしなか)、都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れ来るは、汝(なんぢ、ナンジ)と一所で(いつしょで)死なんと思ふためなり。所々で(ところどころで)討たれんよりも、一所で(ひとところ)こそ討死(うちじに)をもせめ」とて、馬の鼻を並べて駆けんとしたまへば、今井四郎、馬より飛び降り、主(しゅ)の馬の口に取りついて申しけるは、「弓矢取りは、年ごろ日ごろいかなる高名(かうみょう、コウミョウ)候へども、最後の時不覚しつれば、長き疵(きず)にて候ふなり。御身は疲れさせたまひて候ふ。続く勢(せい)は候はず。敵に押し隔てられ、 いふかひなき (イウカイナキ)人の郎等(らうどう、ロウドウ)に組み落とされさせたまひて、討たれさせたまひなば、『さばかり日本国(にっぽんごく)に 聞こえ させたまひつる木曾殿をば、それがしが郎等の討ちたてまつたる。』なんど申さんことこそ 口惜しう (くちをしう、クチオシュウ)候へ。ただあの松原へ入らせたまへ。」と申しければ、木曾、「 さらば 。」とて、粟津の松原へぞ駆けたまふ(タモウ)。.

これは「弓を張ったような形の月」と「弓」、「月のいる方向」と「射る」を掛けた歌。 武芸に秀でただけでなく、優れた歌を即座に返すことができる教養を持った頼政を、近衛天皇はさらに高く評価しました。.

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  • 自由なテーマ・リズムの中で些細な感情の動きや情景を表現することができる「自由律俳句」。今回は、尾崎放哉や河東碧梧桐といった俳人たちが詠んだ名句をクイズ形式でご紹介します! あなたは何問正解できるでしょうか?. 遠く外国の(例を) さがせば 、( 中国 では、)(盛者必衰の例としては)秦(しん、王朝の名)の趙高(ちょうこう、人名)、漢(かん)の王莽(おうもう、人名)、梁(りょう)の朱伊(しゅい、人名)、唐(とう)の禄山(ろくざん、人名)(などの者がおり)、これら(人)は皆、もとの主君や皇帝の政治に従うこともせず、栄華をつくし、(他人に) 忠告 されても深く考えず、(その結果、民衆の苦しみなどで)世の中の(政治が)乱れていくことも気づかず、民衆が嘆き訴えることを気づかず、(権力も)長く続かずに 滅んでしまった 者たちである。 (いっぽう、)身近に、わが国(=日本)(の例)では、承平の将門(まさかど)、天慶の純友(すみとも)、康和の義親(ぎしん)、平治の信頼(のぶより)、これら(の者ども)は、おごった心も、勢いの盛んさも、皆それぞれに(大したものであり、)、(こまかな違いはあったので、)まったく同じではなかったが、最近(の例)では、六波羅の入道の平清盛公と申した人の有様(ありさま)は、(とても、かつての権勢はさかんであったので、)(有様を想像する)心も、(言い表す)言葉も、不十分なほどである。.
  • 木曾殿は、信濃より巴・ 款冬 やまぶき とて二人の美女を具せられたり。款冬はいたはりあッて都にとどまりぬ。中にも巴は、色白う髪長くして、容顔誠に美麗なり。有難き 勁 つよゆみ 精兵 せいびょう 、弓矢・打物取ッては如何なる鬼にも神にもあはうと云(ふ)、一人当千の兵なり。 究竟 くっきょう の荒馬乗り、悪所落し、 軍 いくさ といへば、まづさねよき鎧きせ、大太刀・勁持たせて、一方の大将に向けられけり。度々(の)高名、肩を並(ぶ)る者なし。されば、多(く)の者共落失(せ)討たれける中までも、七騎がうちまでも巴は討たれざりけり。 『平家物語』第九巻『木曾の最期』より. 仮に信濃前司行長が作者だったとしても、日本各地を舞台とした平家一門のさまざまなエピソードをひとりの人間がまとめ、壮大な物語として執筆することは容易ではないでしょう。 そして戦を描いたノンフィクションだけでなく、ときには妖怪を退治した冒険譚も存在します。そんな創作部分も含め、『平家物語』を信濃前司行長ひとりが書いたと断言するのは難しいのです。.

『平家物語』 木曽義仲の最期 後半の原文冒頭

そこを破つて行くほどに、土肥次郎実平 とひのじらうさねひら 、二千余騎でささへたり。 そこ(の敵)を破って行くうちに、土肥次郎実平が、二千余騎で(行く手を)阻んでいた。. 後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の 誉 ほまれ ありけるが、(中略) この行長入道、平家物語を作りて、 生仏 しょうぶつ といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門の事を殊にゆゆしく書けり。 九郎判官 くろうほうがん の事は 委 くわ しく知りて書き載せたり。 蒲冠者 かばのかんじゃ の事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記し洩らせり。武士の事、弓馬の 業 わざ は、生仏、東国の者にて、武士に問ひ聞きて書かせけり。.

また、後編は「平家物語:木曾の最期・巴との別れ〜後編〜」の現代語訳(口語訳) になります。. そののち、物具 もののぐ 脱ぎ捨て、東国の方へ落ちぞ行く。 (巴は)その後、(鎧、甲などの)武具を脱ぎ捨て、東国の方へ落ち延びていく。. 作中で出てくる平清盛(たいらのきよもり)も、源義経(みなもとのよしつね)も、実在した人物。作中で書かれる「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)などの合戦(かっせん)も、実際の歴史上の出来事。 作者は不明。.

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『平家物語』 木曽義仲の最期 ここまでの歴史

そののち、物具 もののぐ 脱ぎ捨て、東国の方へ落ちぞ行く。 (巴は)その後、(鎧、甲などの)武具を脱ぎ捨て、東国の方へ落ち延びていく。. 木曾三百余騎、六千余騎が中を、縦様 たてさま ・横様 よこさま ・蜘蛛手 くもで ・十文字に駆け割つて、後ろへつつと出 い でたれば、五十騎ばかりになりにけり。 木曾(の軍勢)三百騎は、(敵の)六千騎の中を、縦に、横に、四方八方に、十文字に駆け破って、(敵の)後ろへつっと出ると、(味方は)五十騎ほどになってしまった。.

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』. 木曾義仲(きそよしなか)の軍勢は、源義経の軍勢と戦っていた。 義仲の軍勢は、この時点の最初は騎ほどだったが、次々と仲間を討たれてしまい、ついに主従あわせて、たったの5騎になってしまう。 義仲は、ともに戦ってきた女武者の巴(ともえ)に、落ちのびるように説得した。.

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『平家物語』木曽の最期の原文冒頭

他言語版 リンクを追加. 遠く外国の(例を) さがせば 、( 中国 では、)(盛者必衰の例としては)秦(しん、王朝の名)の趙高(ちょうこう、人名)、漢(かん)の王莽(おうもう、人名)、梁(りょう)の朱伊(しゅい、人名)、唐(とう)の禄山(ろくざん、人名)(などの者がおり)、これら(人)は皆、もとの主君や皇帝の政治に従うこともせず、栄華をつくし、(他人に) 忠告 されても深く考えず、(その結果、民衆の苦しみなどで)世の中の(政治が)乱れていくことも気づかず、民衆が嘆き訴えることを気づかず、(権力も)長く続かずに 滅んでしまった 者たちである。 (いっぽう、)身近に、わが国(=日本)(の例)では、承平の将門(まさかど)、天慶の純友(すみとも)、康和の義親(ぎしん)、平治の信頼(のぶより)、これら(の者ども)は、おごった心も、勢いの盛んさも、皆それぞれに(大したものであり、)、(こまかな違いはあったので、)まったく同じではなかったが、最近(の例)では、六波羅の入道の平清盛公と申した人の有様(ありさま)は、(とても、かつての権勢はさかんであったので、)(有様を想像する)心も、(言い表す)言葉も、不十分なほどである。.

木曾殿はたったの一騎で、粟津の松原へ駆けなさるが、(その日は)正月二十一日、夕暮れ時のことであるので、 (田に)薄氷が張っていたが(気づかず)、深い田があるとも知らずに、(田に)馬をざっと乗り入れてしまったので、馬の頭も見えなくなってしまった。(あぶみでは馬の腹をけって)あおっても、あおっても、(むちを)打っても打っても、 馬は 動かない 。(義仲は)今井の行方が気がかりになり、振り返りなさった(とき)、(敵の矢が)甲(かぶと)の内側を(射て)、(その矢は)三浦(みうら)の石田次郎為久(いしだじらうためひさ)が追いかかって、十分に(弓を)引いて、ピューと射る(矢である)。(木曾殿は)深い傷を負ったので、甲の正面を馬の頭に当ててうつぶせになさったところ石田の家来が二人来合わせて、ついに木曾殿の首を取ってしまった。 太刀の先に(義仲の首を)貫き、高く差し上げ、大声を挙げて「このごろ、日本国に名声の知れ渡っている木曾殿を、三浦の石田次郎為久が討ち取り申し上げたぞ。」と名乗ったので、今井四郎は、戦っていたが、これを聞き、(今井四郎は言った、) 「今は、誰をかばおうとして、戦いをする必要があるか。これを(=私を)ご覧になされ、東国の方々。日本一の勇猛な者が自害する手本を。」と言って、(今井は自害のため)太刀の先を口に含み、馬上から逆さまに飛び落り、(首を)貫いて死んだのである。そのようないきさつで、粟津の戦いは終わった。.

畠山(はたけやま)、五百余騎で、 やがて 渡す。向かへの岸より山田次郎(やまだじらう)が放つ矢に、畠山馬の額(ひたひ)を篦深(のぶか)に射させて、弱れば、川中より弓杖(ゆんづゑ)を突いて降り立つたり。岩浪(いはなみ)、甲(かぶと)の手先へざつと押し上げけれども、事ともせず、水の底をくぐつて、向かへの岸へぞ着きにける。上がらむとすれば、後ろに者こそむずと控へたれ。 「 誰そ(たそ) 。」 と問へば、 「重親(しげちか)。」 と答ふ。 「いかに大串(おほぐし)か。」 「さん候ふ。」 大串次郎は畠山には烏帽子子(えぼしご)にてぞありける。 「あまりに水が速うて、馬は押し流され候ひぬ。 力及ばで 付きまゐらせて候ふ。」 と言ひければ、 「いつもわ殿原は、重忠(しげただ)がやうなる者にこそ助けられむずれ。」 と言ふままに、大串を引つ掲げて、岸の上へぞ投げ上げたる。投げ上げられ、 ただ なほつて、 「武蔵(むさし)の国の住人、大串次郎重親(しげちか)、宇治川の先陣ぞや。」 とぞ名のつたる。敵(かたき)も味方もこれを聞いて、一度にどつとぞ笑ひける。.

池井戸潤のドラマ化された人気作品をご紹介 池井戸潤の『半沢直樹』シリーズが原作となっているTBSのドラマ『半沢直樹』は大ヒット作品となり、主人公の決め台詞の「倍返し」は流行語にもなりました。その他にも池井戸作品は次々とドラマ化され、どれも高視聴率の人気ドラマとなっています。これまでにドラマ化された池井戸作品についてご紹介します。.

: Wikibooks.

2013年01月14日

木曾義仲は、京の都で平家を打倒し、制圧した。しかし、木曾軍は都で乱暴をはたらき、さらに後白河法皇と木曾義仲とは対立し、そのため法王は源頼朝に木曾義仲の討伐を下した。 源頼朝は弟の範頼と義経に、木曾義仲を討伐することを命じた。. なお、日本最古の和漢混淆文は、平安末期の作品の『今昔物語』(こんじゃく ものがたり)だと言われている。(『平家物語』は最古ではないので、気をつけよう。)平家物語が書かれた時代は鎌倉時代である。おなじく鎌倉時代の作品である『徒然草』(つれづれぐさ)や『方丈記』(ほうじょうき)も和漢混淆文と言われている。(要するに、鎌倉時代には和漢混淆文が流行した。).

今井四郎はたったの一騎で、五十騎ばかりの(敵の)中へ駆け入り、鐙(あぶみ)に踏ん張って立ち上がり、大声を上げて(敵に)名乗ったことは、「日ごろは、うわさで聞いていたであろうが、今は目で見なされ。木曾殿の御乳母子(である)、今井四郎兼平、年齢は三十三歳になり申す。 そういう者 がいることは、鎌倉殿(=源頼朝)までご存知であろうぞ。(この私、)兼平を討ち取って(鎌倉殿に)お目にかけよ。」と言って、射残した八本の矢を、つがえては引き、つがえては引き、次々に射る。(射られた敵の)生死のほどは分からないが、 たちまち 敵の八騎を射落とす。それから、刀を抜いて、あちらに(馬を)走らせ(戦い)、こちらに走らせ(戦い)、(敵を)切り回るので、面と向かって立ち向かう者もいない。(多くの敵を殺して、首や武器など)多くを奪った。(敵は、)ただ「射殺せよ。」と言って、(兼平を殺そうと包囲して、敵陣の)中に取り込み、(いっせいに矢を放ち、まるで矢を)雨が降るように(大量に)射たけれど、(兼平は無事であり、兼平の)鎧(よろい)が良いので裏まで矢が通らず、(敵の矢は)よろいの隙間を射ないので(兼平は) 傷も負わない 。.

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