織田 信長 室町 幕府

公開日: 29.09.2020

とはいえ、近畿東海以外では足利将軍家支持の 武家 もまだまだ多かった。義昭はこの地から京都への帰還 [31] や信長追討を目指し、全国の大名に御内書を下している。6月12日には、武田、北条、上杉の三者に甲相越三和を命じる御内書を再度下した。前年とは違い、この時は毛利輝元の副状付きであった。また、毛利氏が上洛に踏み切らないのは、北九州で大友宗麟の侵攻を受けているからだと考えた義昭は 島津氏 や 龍造寺氏 に 大友氏 討伐を命じる御内書を下した。島津義久はこれを大友領侵攻の大義名分として北上し、 日向国 の 伊東義祐 を旧領に復帰させるために南下しようとしていた大友宗麟と激突、天正6年( 年 )の 耳川の戦い の一因になったとする説もある [32] 。 天正5年( 年 )9月の 手取川の戦い で織田軍を破った上杉謙信も天正6年( 年 )3月に死去し、天正8年( 年 )には 石山本願寺 も信長に降伏した。天正10年( 年 )3月には武田勝頼が信長によって滅ぼされた( 甲州征伐 ) [注釈 26] 。また、毛利氏も義昭のために全く動いていない訳ではなかった。天正4年(年)に三好長治が自害に追い込まれて阿波三好家中が混乱すると、天正6年(年)には毛利輝元は三好義堅(十河存保)を三好氏の当主と認めて和睦、連合して織田氏に対抗しようとする。義昭自身は最初は和睦には反対であったが、最終的には同意して真木島昭光に仲介を命じている。だが、織田氏と結んだ土佐の長宗我部元親の讃岐・阿波侵攻によって計画は失敗してしまった [33] 。.

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この頃、北陸方面では柴田勝家が一時奪われた富山城を奪還し、魚津城を攻撃( 魚津城の戦い )。上杉氏は北の 新発田重家 の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。. 興良親王 年 - 宗良親王 年 - ( 尹良親王 ) 年 ?-. 相撲大会では、成績の優秀な者は褒美を与えられ [] 、また 青地与右衛門 などのように織田家の家来として採用されることもあったという [] 。具体的な例として、天正6年( 年 )8月に行われた相撲大会においては、信長は優秀な成績を収めた者14名をそれぞれ石で召し抱え、彼らには家まで与えたという [] 。.

通称 :三郎、上総守、上総介、右大将、右府. 信長の宗教政策上、天正7年の「 安土宗論 」が注目されてきた [] [] 。この安土宗論は、信長の関与のもと、浄土宗と日蓮宗のあいだで宗論が行われたというものである [] 。日蓮宗は宗論において敗北を認めさせられ、今後、他の宗派に論争を仕掛けないことを強いられた [] 。一般的には、安土宗論は信長による日蓮宗に対する弾圧だと捉えられてきた。例えば、三鬼清一郎は、日蓮宗が「宗論の敗訴という形で、宗旨そのものに致命的打撃を与えることによって屈服させられた」と表現し、 天文法華の乱 のような都市民と日蓮宗の連携の危険を排除したと述べている [] 。しかし、安土宗論の実際の目的は、日蓮宗弾圧というよりも、宗論を抑制することで宗教的秩序の維持を企図する点にあったと考えられるという議論もある [] [] 。. 名前空間 ページ ノート. 矢島御所において義秋は、 三管領家 の一つである 河内国 の 畠山高政 、 関東管領 の上杉輝虎、 能登国 守護の 畠山義綱 (近江滋賀郡在国)らとも親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺った。特に高政は義秋を積極的に支持していたとみえ、実弟の 畠山昭高 を、この頃に義秋に従えさせた。六角義賢は当初は上洛に積極的で、和田惟政に命じて 浅井長政 と 織田信長 の妹・ お市 の婚姻の実現を働きかけている [4] 。義秋や六角・和田の構想は敵対していた六角氏・浅井氏・ 斎藤氏 ・織田氏、更には武田氏・上杉氏・後北条氏らを和解させ、彼らの協力で上洛を目指すものであったと考えられている。実際に和田惟政と細川藤孝の説得で信長と 斎藤龍興 は和解に応じ、信長は美濃から六角氏の勢力圏である北伊勢・南近江を経由して上洛することになった [6] [7] 。 この義秋の行動に対して、 三好三人衆 の 三好長逸 の軍勢3,騎が突然矢島御所を襲撃してきたが、この時は 大草氏 などの 奉公衆 (親衛隊)の奮戦により、からくも撃退することが出来た。.

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  • 幕府の直臣は、奉行衆、奉公衆などの名以上が義昭の鞆下向に同行している [] 。その一方で、細川藤孝ら多くの幕臣が京都に残り信長側に転じた [] 。これらの旧幕臣は、明智光秀の与力となり、室町幕府の組織を引き継ぐ形で京都支配に携わることとなった [] 。.
  • 公卿補任。ただし、『 歴名土代 』は従五位下・同日昇殿とする。.

戦国時代 ( 室町時代 後期) - 安土桃山時代. 天文 6年 旧11月13日 ( 年 12月15日 ). 本能寺の変から4ヶ月後、 羽柴秀吉 の手によって、 大徳寺 において信長の葬儀が盛大に行われた [] 。. いわゆる「 楽市・楽座 令」は、信長が最初に行った施策と言われることが多いが、現在確認されている限りでは、 近江 南部の 戦国大名 であった 六角氏 が最初に行った施策である [] 。この「楽市・楽座令」については評価が別れている [] 。かつて 豊田武 は、特権的な商工業者の団体である 座 を解体し、流通を促進する革新的政策であると位置づけた [] 。一方で、信長は実際には多くの座の特権を保障しており、 脇田修 らは信長が座の否定を意図していなかったと論じている [] 。.

なお、羽柴秀吉が子に恵まれない正室・ ねね に対して辛く当たっていることを知ると、ねねに対して励ましの手紙を送っていることが知られる [] [] [注釈 79] 。.

13 24 222. 9 [] ! : ISBN GND ISNI LCCN VIAF. 16 113 29 [27] ! [ 76] [] .

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

元亀3年( 年 )10月、信長は義昭に対して17条の意見書を送付した [注釈 19] [注釈 20] 。 この意見書は義昭の様々な点を批判している。. しかし、元亀4年(年)2月に足利義昭が信長を裏切ったため、やむを得ず、将軍不在のまま、信長は中央政権を維持しなければならなくなる [] [注釈 85] 。とはいえ、義昭追放後も、義昭が放棄した「天下」を信長が代わって取り仕切るというスタンスをとり、「天下」を委任されたという信長の立場は変わらなかった [] 。そして、信長は、将軍に代わって「天下」を差配する「天下人」となった [] 。金子拓によれば、信長は、「天下」の平和と秩序が保たれた状態(「天下静謐」)を維持することを目標としていた [] 。この天下静謐の維持の障害となる敵対勢力の排除の結果として、信長は勢力を拡大したが、あくまで目的は天下静謐の維持であって、日本全国の征服といった構想はなかったという [] 。そして、信長は「天下」の下に各地の戦国大名や国衆の自治を認めつつ、彼らを織田政権に従属させることで日本国内の平和の実現を進めていった [] 。.

従五位下 ・ 左馬頭 、 参議 ・ 左近衛中将 征夷大将軍 、 従三位 ・ 権大納言 、 准三后.

[ 76] []. 5 8 [] [] 10 []. [30] 712 [ 19] [30] [30]. [] [] [] .

室町幕府の滅亡について

天正2年から天正3年にかけて、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた [] 。天正3年( 年 )4月、勝頼は武田氏より離反し 徳川氏 の家臣となった 奥平貞昌 を討つため、貞昌の居城・ 長篠城 に攻め寄せた [] 。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。. 信長は、 柴田勝家 、 滝川一益 、 羽柴秀吉 明智光秀 などの有力部将に地域ごとに軍団を率いさせるとともに、自身の直属部隊として馬廻などを組織していた [] 。この馬廻は稲生、桶狭間、田部山で活躍している [] 。信長軍は機動力に優れており、 本圀寺の変 では、本来なら3日はかかる距離を2日で(しかも豪雪の中を)踏破し [] 、摂津国に対陣している間に浅井・朝倉連合軍が京都に近づいた際にも、急いで帰還して京都を守り抜いている。部下の秀吉も、いわゆる「中国大返し」や 賤ヶ岳の戦い などで高い機動力を見せており、特に中国大返しは信長の戦術の一面を超えたと言う指摘もある [] 。. 信長の趣味として、後述する茶の湯、相撲とともに 鷹狩 が知られる。『信長公記』首巻にはすでに鷹狩の記述がみられ、青年期からの趣味であったことがわかる [] 。.

そこで、 三好長慶に従うフリをしていた政所執事の伊勢貞孝が義輝の賛意を得て、軍事行動を起こしたものです 。. とあり、進士家(しんしけ)と光秀、明智家(あけちけ)の関係が記載されています。後年の江戸時代作でしょうから、既に明智光秀の説明文となっていますが、 光秀が進士家の出身である可能性を示している ようです。.

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このように信長に対する酷評が広まった状況にあって、信長を再評価したのが、 頼山陽 である [] 。江戸時代後期の 尊王運動 に多大な影響力を有したことで知られる [] 頼山陽 の『 日本外史 』は、信長を「超世の才」として高く評価した [] 。『日本外史』は、信長の勤王家としての面を強調する [] 。そして、中国 後周 の名君・ 世宗 の偉業が 趙匡胤 の 北宋 樹立に続いたのと同じように、信長の覇業こそが、豊臣・徳川の平和に続く道を作ったのだと述べる [].

公益財団法人 日本城郭検定協会. 室町幕府 第15代 征夷大将軍 (在任:永禄11年(年) - 天正16年(年)). 尾張に勢力を移した織田家では、岩倉を本拠とする伊勢守家と清洲を本拠とする大和守家に分裂し、各々が守護代として尾張半国を治めた [7] 。そして、後者の大和守家の分家で、 清洲三奉行 家の一つである弾正忠家こそが、信長の家系である [7] 。.

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知っておきたい:

コメント

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  2. 大徳寺文書 [注釈 71]. 足利氏 ( 将軍家 ).

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