和気清麻呂

公開日: 01.11.2020

清麻呂公は都を立って10日余りの旅程で宇佐神宮に着き、 斎戒沐浴 して神殿に ぬかづき 、神護景雲3年(769)7月11日、 「 我が国は開闢(かいびゃく)以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣 ひつぎ は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除(そうじょ)すべし。 」とのお告げを受けます。. また、出身地の岡山県和気町には、 和気氏 一族の氏神である 和気神社 があり、和気清麻呂・和気広虫が祀られている。ゆかりの寺として 実成寺 もある。配流先とされる 鹿児島県 霧島市 にも 和気神社 がある。.

隠しカテゴリ: Webarchiveテンプレートのウェイバックリンク ISBNマジックリンクを使用しているページ ISNI識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事. A) Archived 年5月8日, at the Wayback Machine. トップページ 宇佐神宮について 参拝のご案内 お祭について よくある質問 八幡講崇敬会 宝物館 表参道商店街 お問い合せ Copyright C 宇佐神宮庁. カテゴリ : 和気氏 奈良時代の貴族 平安時代初期の貴族 備前国の人物 正一位受位者 日本の紙幣の人物 日本の神 人物神 日本の仏教徒 年生 年没. 案内メニュー 個人用ツール ログインしていません トーク 投稿記録 アカウント作成 ログイン. 由緒 ご祭神 八幡大神ゆかりの伝承 鍛冶翁 東大寺の大仏建立 和気清麻呂とご神託 神仏習合 歴史年表.

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  • 和気清麻呂公絵巻 和気氏の先祖 和気氏は、第11代垂仁天皇の第5皇子である、鐸石別命より始まります。命の曽孫である弟彦王が、神功皇后の新羅遠征に従軍しました。凱旋した翌年に、忍熊王が反逆しました。 弟彦王の活躍 皇后は弟彦王に命じて、針磨(播磨)と吉備の境に、関(備前市三石)を設けて防がせました。弟彦王によって、反乱は鎮圧されました。 一族の繁栄 弟彦王はこの勲功によって、藤原県に封じられこの地に土着しました。その後、和気氏は代々郡司の役について、この地を中心に備前・美作に栄えました。 和気姉弟の生い立ち 和気広虫姫は天平2年(730)に、弟和気清麻呂公は天平5年(733)に、備前国藤野郡(岡山県和気町)に生まれました。 姉弟の生誕地 広虫姫と清麻呂公の父親である乎麻呂は、郡司を勤めていました。従って、姉弟は藤野郡の郡衙のあった、藤野郷で生まれました。2人は成人して上京するまで、藤野郷の父母の元で成長しました。 広虫姫の上京 やがて姉の広虫姫は、采女となって奈良の都に上りました。平城京の後宮で、女孺として仕えました。そして15歳で中宮職に勤める葛木戸主と結婚しました。 清麻呂公の上京 成人した弟の清麻呂公も上京し、近衛府の武官となって朝廷に仕えました。姉弟は家財を共有するほど、仲がよかったと言われています。 地方豪族の子弟 この時代の地方豪族の子弟は、男子は舎人として、女子は采女として、朝廷に出仕するのが習わしでした。. 配流先の広虫姫 備後国に流された広虫姫は、貧しい暮らしをしていました。大隈国へ流された弟清麻呂公のことや、都に残してきた家族や、養育している子供たちのことを思って、淋しい日々を過ごしていました。 子供たちの激励 そんなある日、都から干し柿が届きました。広虫姫が育てている、子供たちから送られたものでした。義母の身の上を心配し、激励の手紙が添えられていました。子供たちの優しい心遣いに、人々は涙を流して感心しました。 備後国の和気神社 広虫姫の配流地(広島県三原市八幡町宮内)に、和気神社が鎮座しています。付近には、多くの史跡や伝承が遺っています。 大隈国の和気神社 清麻呂公の配流地(鹿児島県姶良郡牧園町中津川)に、和気神社が鎮座しています。ここにも多くの史跡や伝承が遺っています。 名誉回復 神護景雲4年=宝亀元年(770)8月、称徳天皇は53歳で崩御されました。そして、光仁天皇が即位されると、道鏡は下野国(栃木県)の薬師寺別当に左遷されました。 一方清麻呂公と広虫姫は、流罪を解かれて都へ還りました。そして本性本位に復して、名誉は回復されました。 清麻呂公の人柄 清麻呂公は「人と為り高直にして、匪躬の節有り」(「日本後記」)、また「故郷を顧念して窮民を憐れみ、忘るることあたわず」(同)、などと史書にあるように、清廉剛直にして、誠実な人柄でした。 広虫姫の人柄 広虫姫は「人となり貞順にして、節操に欠くること無し」(「日本後記」)、「未だ嘗て法均の、他の過ちを語るを聞かず」(同)、などと史書にあるように、慈悲深く清純で心の広い人柄でした。.
  • 道鏡の怒りをかった清麻呂公は、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて脚 あし の腱(けん)を切られた上、 大隅国 へ流されました。 その途中、暗殺を謀って送られた道鏡の刺客(しかく)から、突然の 天地雷鳴 や300頭あまりの猪の大群が和気清麻呂を護り、さらに宇佐へ詣でたところ、道鏡に傷つけられた脚が回復するなど、八幡大神のご守護により数々の奇跡がおきたと伝えられています。. 奈良時代 末 - 平安時代 初期.

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備前国 藤野郡 (現在の 岡山県 和気町 )出身。 天平宝字 8年( 年 )に発生した 藤原仲麻呂の乱 では 孝謙上皇 側に参加したらしく、 天平神護 元年( 年 )正月に乱での功労により 勲六等 の 叙勲 を受け、3月には藤野別真人から吉備藤野和気真人に 改姓 している。 右兵衛少尉 を経て、天平神護2年( 年 ) 従五位下 に 叙爵 し、 近衛将監 に任ぜられるとともに特別に 封戸 50戸を与えられた。.

このようにして、宇佐神宮の 国体擁護 のご神徳と、和気公の 至誠 の精神とが皇室をご守護することとなりました。. 延暦18年( 年 )2月21日 薨去 。 享年 67。最終官位は従三位行民部卿兼造宮大夫美作備前国造。即日 正三位 の 位階 を贈られた。. 清麻呂は 楠木正成 などとならぶ勤皇の忠臣と見なされることもあり、戦前には 十円紙幣 に肖像(想像図、 キヨソーネ の描いた 木戸孝允 の肖像画を修正したもの)が印刷された。 東京都 千代田区 大手町 の 大手濠緑地 ( 気象庁 付近)や、岡山県和気町の和気神社境内など、各地に 銅像 がある。. 神護景雲 3年( 年 )7月頃に 宇佐八幡宮 の 神官 を兼ねていた 大宰府 の主神(かんづかさ)・ 中臣習宜阿曾麻呂 が宇佐八幡神の 神託 として、称徳天皇が寵愛していた 道鏡 を 皇位 に就かせれば天下太平になる、と 奏上 する。道鏡はこれを聞いて喜ぶとともに自信を持ち(あるいは道鏡が習宜阿曾麻呂を唆して 託宣 させたともされる)、自らが 皇位 に就くことを望む [2] [3] 。.

WorldCat Identities ISNI : LCCN : n NDL : VIAF : ? 4 8 9 2 39 4 [3]. [9]. 4 和気清麻呂 7 19 31 318 [7] [8]和気清麻呂.

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また、出身地の岡山県和気町には、 和気氏 一族の氏神である 和気神社 があり、和気清麻呂・和気広虫が祀られている。ゆかりの寺として 実成寺 もある。配流先とされる 鹿児島県 霧島市 にも 和気神社 がある。. このようにして、宇佐神宮の 国体擁護 のご神徳と、和気公の 至誠 の精神とが皇室をご守護することとなりました。 この後、宇佐神宮への勅使を宇佐使(うさづかい)また和気使(わけづかい)といい、和気氏が派遣されるのが例となりました。 清麻呂公は当宮末社、護皇 ごおう 神社に 祭祀 されています。.

翌年の神護景雲4年8月4日(770)天皇が西宮神殿で崩御、光仁天皇が御即位になって年号を宝亀と改め、同年9月6日清麻呂公は召し返され、翌宝亀2年3月29日(771)には元の位に着き、9月16日に 薩摩 の国員外の介に任ぜられたが、間もなく 豊前 の守 かみ に還されました。. All Rights Reserved.

10 8 [3]. [3] 2 3 ? All Rights Reserved.

神護景雲 3年( 年 )7月頃に 宇佐八幡宮 の 神官 を兼ねていた 大宰府 の主神(かんづかさ)・ 中臣習宜阿曾麻呂 が宇佐八幡神の 神託 として、称徳天皇が寵愛していた 道鏡 を 皇位 に就かせれば天下太平になる、と 奏上 する。道鏡はこれを聞いて喜ぶとともに自信を持ち(あるいは道鏡が習宜阿曾麻呂を唆して 託宣 させたともされる)、自らが 皇位 に就くことを望む [2] [3] 。.

和気 清麻呂 (わけ の きよまろ)は、 奈良時代 末期から 平安時代 初期にかけての 貴族 。磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子。. 案内 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード ウィキメディア・コモンズ.

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西の海たつ白波の上にして なにすごすらんかりのこの世を. ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ. 和気清麻呂公絵巻 和気氏の先祖 和気氏は、第11代垂仁天皇の第5皇子である、鐸石別命より始まります。命の曽孫である弟彦王が、神功皇后の新羅遠征に従軍しました。凱旋した翌年に、忍熊王が反逆しました。 弟彦王の活躍 皇后は弟彦王に命じて、針磨(播磨)と吉備の境に、関(備前市三石)を設けて防がせました。弟彦王によって、反乱は鎮圧されました。 一族の繁栄 弟彦王はこの勲功によって、藤原県に封じられこの地に土着しました。その後、和気氏は代々郡司の役について、この地を中心に備前・美作に栄えました。 和気姉弟の生い立ち 和気広虫姫は天平2年(730)に、弟和気清麻呂公は天平5年(733)に、備前国藤野郡(岡山県和気町)に生まれました。 姉弟の生誕地 広虫姫と清麻呂公の父親である乎麻呂は、郡司を勤めていました。従って、姉弟は藤野郡の郡衙のあった、藤野郷で生まれました。2人は成人して上京するまで、藤野郷の父母の元で成長しました。 広虫姫の上京 やがて姉の広虫姫は、采女となって奈良の都に上りました。平城京の後宮で、女孺として仕えました。そして15歳で中宮職に勤める葛木戸主と結婚しました。 清麻呂公の上京 成人した弟の清麻呂公も上京し、近衛府の武官となって朝廷に仕えました。姉弟は家財を共有するほど、仲がよかったと言われています。 地方豪族の子弟 この時代の地方豪族の子弟は、男子は舎人として、女子は采女として、朝廷に出仕するのが習わしでした。.

産経新聞 は、皇統の断絶という日本最大の危機を救った人物と評した [9] 。.

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コメント

  1. Yasashiku
    清麻呂は摂津大夫を務める傍ら、 民部大輔 次いで 民部卿 を務め、民部大輔・ 菅野真道 とともに民政の刷新を行うとともに、『民部省例』20巻を編纂した。延暦7年( 年 )には 中宮大夫 に任ぜられて 皇太夫人 ・ 高野新笠 にも仕え、その命令を受けて新笠の出身氏族 和氏 の系譜を編纂し『和氏譜』として撰上し、桓武天皇に賞賛されている。さらには、延暦3年(年)の遷都後10年経過しても未だ完成を見なかった長岡京に見切りを付けて、 山背国 葛野郡 宇太村 を選んで 平安京 への 遷都 を進言するとともに、延暦12年( 年 )には 造宮大夫 に任ぜられ、自身も建都事業に尽力した。この間の延暦9年( 年 ) 正四位下 、延暦15年( 年 )には 従三位 に叙せられ、ついに 公卿 の地位に昇っている。.
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  3. カテゴリ : 和気氏 奈良時代の貴族 平安時代初期の貴族 備前国の人物 正一位受位者 日本の紙幣の人物 日本の神 人物神 日本の仏教徒 年生 年没.

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